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DOS & DON'TS
THE CREATORS PROJECT - SPIKE JONZE
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![]() ソウルにある、北朝鮮の難民をかくまっていることで知られる9階建てのキリスト教の教会で、私は3人の北朝鮮人に会うことができた。教会の名前はわからない。牧師には“ソウル教会”と呼ぶようにと言われた。テキサスやハートランドにあるキリスト教会みたいだった。信者はスーツやドレスを身にまとい、子供たちは色が薄れたジーパンやスポーツ着といういでたち。7階では家族が大きな食堂で食事をとっていて、隣の部屋ではエプロン姿の4人のおばさんが超浮かれている子供たちを静かにさせようとしていた。
すると、3人の人が話をしてくれた。これが彼らの証言: クワン・イル・パーク牧師 僕は興南という、北朝鮮で最も大きな工業都市の一つで生まれた。とても裕福な家のお坊ちゃんだったから、5歳から10歳までは体操を習っていた。家は幅4.5mくらい。中は真ん中で真っ二つに分かれていて、部屋は全部で2つあった。僕は両親と部屋を共有していたけど、別に貧しかったわけじゃない。北朝鮮では政府が住宅を管理しているため新しい家を買うことが許されず、政府に渡された家に住んでいたんだ。でも、後に政府は公営住宅の建設費が足りなくなり、僕の両親に借金をした。そのお礼として、彼らはその建物の5部屋を我々にくれた。 ![]() 興南は西洋の工業都市とよく似ている。しかし、北朝鮮には電気が不足しているうえ、原料や資金も少ないため、大きな工場があっても運用されていないことが多い。西洋だったら工場が建っていれば必ず営業しているし、作業員が常に働いている。しかし、北朝鮮では施設があっても原料や電気がないため工場は閉鎖されている。工場でやる作業がないため、労働者は来ないし、来ても給料はもらえない。だが時々、政府から原料をもらい、生産した商品を政府が買い取ることがある。でも、うまくいかない場合も多く、結局商品が政府に渡らず工場に資金が行き届かないでいる。工場は静かで暗く、管理人や警備員以外の人影はない。 北朝鮮の社会は4つのグループに別れている。1番上の層は政府高官、2番目は中流階級、3番目は普通の一般市民、そして一番下は間違った考えをしている人々。つまり、非共産主義の国民だ。上の2層は米と野菜を与えられるのだが、下の2層には十分な米がないため、彼らは草や木を食べている。春になると、彼らは食べられそうな草木をむしって、茹でて食べるんだ。 北朝鮮では軍隊と政府の2つの組織が力を握っている。知っての通り、政治的権力を唯一握っているのは金正日。軍のリーダーは金正日ととても親密だ。彼らは平壌にいる。州の指導者は“中流階級”と呼ばれる層の人々。“中流階級”と言っても北朝鮮では上流階級に値する。我々のような労働者が普通の階級だ。 僕は一般階級だったが家族は裕福だった。北朝鮮での暮らしは心地良かったから、最初は逃亡する気などなかった。家族に政治的な権力がないにしても、友人のほとんどは中流階級の人々だった。しかし、1986年に北朝鮮の闇市でたまたまテレビドラマを観る機会があったんだ。韓国では有名な『砂時計』というドラマだ。あまりにも面白かったので、僕が中流階級の友達にそれを貸すと、それがまた彼らの友達へと渡り、瞬く間に中流階級中に広がった。これが大問題となったのだ。当時北朝鮮は経済的に苦境に陥っていたから、西洋文化(政府はこれを“黄色い文化”と呼ぶ)が流行ってしまったら政府は困る。そこで、国家安全保障局がドラマを流行らせた犯人を探し始めた。ドラマを観たりダビングしたりした人々は、皆中流階級だったから権力があった。彼らの両親が政府で働いていたりしてね。でも、僕の両親は裕福だったが政府で働いているわけではなかった。つまり、両親に政治的権力がなかったために僕が選ばれたってことだ。結局政府は僕を中国に追放することにした。誰かしらを罰しなければならなかったからね。政府は、「彼を中国に追放しろ。皆がこの事件のことを忘れた頃にまた連れ戻せばいい」と言った。 僕はしばらく国境付近にある和龍市にいた。でも、中国本土に住みたいと思ってもっと奥地に行ってみたんだ。だが結局捕まり、北朝鮮の茂山に連れ戻され一週間北朝鮮当局に尋問された。次に清津に移動させられ、国家安全保障局にも尋問された。小さなコンクリートの個室で寝泊まりしたのだが、横たわることは許されなかった。刑罰の一環として、座ったまま睡眠をとらなければならなかった。毎日1食、コーン、豆、そして野菜を小さな茶碗一杯分だけ与えられ、2人の男に机と椅子がある別の部屋で40日間続けて拷問された。とても怖かった。死ぬほどね。捜査官の仕事は反共主義のスパイを探すことだったから、僕が拷問されたのもそのためだった。体中の骨を折られ、何度も繰り返し同じ質問をされた:「なぜ中国本土に逃げたんだ? あのビデオテープはどこで見つけた? 韓国のスパイと連絡をとっているのか? 他にもビデオを持ってるんじゃないか? なぜそんなに反共主義なんだ?」 質問に答えなかったり間違った答え方をすると、蹴られたり殴られたり、大きな木の棒で叩かれたりした。あと、“ハト”という拷問もあった。背中の後ろで手足を縛られ、天井から吊り下げられるというものだ。大抵、2,3時間はこの体勢で吊られた。この姿勢では、他より重い頭が下に下がる。すると、血液が顔に溜まって脳みそがうまく働かなくなるから気絶してしまう。だが、気絶するたびに彼らは頭を水に浸けて起こすんだ。気絶して自分がどこにいるのかを忘れてしまい、起きるとまた思い出すということがあった。しかし、10日間も拷問や乱暴をされると、とにかく早く死にたいという思いで頭がいっぱいになるんだ。目が覚めると、「何でまだ生きてるんだ? 早く死にたい、死にたい」としか考えられなかった。多くの人は40日間の尋問の間に死んでしまうから、僕もきっと死ぬんだろうと思っていた。自由になれるという希望などなかったから、とにかくすべてを終わらせたかった。身体的な苦痛と馬鹿げた行いをね。とにかく死にたかった。あれだけ何度も殴られると、ある時から何も感じなくなるんだ。身体的な痛みも感じない。麻痺状態なんだ。例えばボクシングの試合でもボクサーはあまり痛みを感じない。体の感覚が鈍るからね。だから僕も、ある程度の拷問を受けているうちに痛みを感じなくなっていったんだ。 40日間の拷問が終わると、僕は列車で北朝鮮の監獄に連れて行かれることになった。列車の中で僕は鬱状態だった。北朝鮮の監獄に入れられるなんて考えただけで耐えられない。そこで、僕は自殺することを決め、動いている電車の中から川に飛び込んだんだ。しかし、僕は奇跡的に助かった。そしてその後、韓国に来たんだ。 ![]() キョン・ハイ・リー 父は北朝鮮で生まれて、母は韓国で生まれた。朝鮮戦争中、母は北朝鮮の軍当局者としてボランティアをしてたの。私は平壌で生まれ、とても良い暮らしをしていた。北朝鮮の政府は食料を配給しているから、平壌ではどんなに社会的地位が低い人でもお米がもらえるの。 平壌って本当に美しい街なの。ソウルよりもキレイよ。とても清潔で、オペラハウスも美しいし、何もかもがかっこいい。でも、実際建物の中に入ると電気が通っていないからエレベーターが使えない。どんなに高いビルでも、階段で上まで登らなければならない。電気が通っていない時は水も止まっているから、蛇口を回しても水が出ない。だから手で水を汲んで、上まで持ち運ばなければならないの。電気がないと暖房もないから寒くていつでも厚着をしてるわ。笑っちゃうような状況よね。 私が14歳の時、政府は韓国生まれの母を完全には信用できないと判断したの。戦争中、北朝鮮側で戦ったのにも関わらずよ。それで、私たち家族は平壌郊外に移された。最初の1年はオンサンという町の一軒家で、同じ待遇の家族と共同生活をした。その後、私たちは地方にとても小さな家を見つけ、そこに引っ越したの。 両親は平壌では医者として働いていたけど、追い出されてからは住宅建設現場や鉱山などで肉体労働をさせられた。罰としての労働だったから、彼らはその生活に幸せを見いだせずにいたわ。それでも、監獄に入れられなかったことには感謝してた。まだある程度の自由が許されたからね。私も同じだった。あの国では、金日成が北朝鮮の偉大なる父だと若者に教え込むから、まだ若かった私は彼に対して特に嫌な気持ちを持っていなかった。彼がとてもいい人だから、お米を与えてくれるのだとばかり思っていた。食事も服も、すべて彼から与えられたものだったから、私は彼に感謝の気持ちで一杯だった。 1990年に多くの国民が飢餓で亡くなり、私は逃亡することを考えた。オンサンは国境付近にあり、中国の東北部にすごく近かった。実際、中国からお米とお金を持ってやってくる人々をよく見かけたわ。オンサンにいれば飢えて死んでしまうけど、逃亡する途中で見つかったら警備員に殺されてしまう。でも、このまま北朝鮮にいればいずれ飢えで死んでしまうと思い、一か八かでやってみることにした。 オンサンの川の向こう岸が中国だったから、単に川を越えればいいだけのことだった。私は幼い頃にそこで育ったから、警備員がいつ行き来していたかをすべて知っていたの。 その頃私は結婚していたんだけど、夫は北朝鮮に多くの兄弟がいたから、逃亡したのが見つかれば彼らの生活が脅かされるという理由で残ることになったの。私たちの間には2人の娘がいた。1人は5歳、もう1人は10歳。私は年上の方の娘を連れて川を渡ることに成功した。中国にはお米が溢れていて、すごく住みやすい場所だと思ったわ。皆、食べきれなくてお米を捨てているのよ。飢餓なんてどこにも見当たらなくて、とても驚いたのを覚えてる。そこで私は下の娘も連れてくるべきだと思い、もう一度北朝鮮へ戻ることにした。 夕方、下の娘を迎えに川辺を歩いていると北朝鮮の兵隊に捕まったの。彼らは私を質問攻めにした:「どこから来たんだ? なぜ川辺を歩いているんだ?川を渡ろうとしているのか?」と。私は、「いえいえ、私の家はすぐそこで、今から帰るところです」と言った。でも、私はその時中国の香水をつけていたの。オンサンでは普通、香水をつけている人なんていない。あと、質の良い中国製の綿のジャケットとパンツを着ていたから、中国から来たということをすぐに見抜かれ、監獄に4ヶ月間閉じ込められたわ。 そこでは約2.1×2.7mの部屋に10人の女性が収容されていたんだけど、皆がギュウギュウになってギリギリ寝そべれるぐらいの広さしかなかった。部屋には水道とトイレが一つずつ。天井にはパイプがあって、いつも水が漏れて滴り落ちていた。寝ていない時は座った状態のまま身動きがとれなかった。皆座ったままで、2時間に1回、5分だけしか動けなかった。動かずにずっと座ったままでいるというのが私たちの罰だったの。夜、皆寝ている時に私たちは唯一立って動き回ることができた。
一人、私が収容される1ヶ月前に出産をした人がいたんだけど、彼女はまだ体が完全に回復していないようだった。彼女は動けずトイレまで行くこともできなかったから、私たち数人で運んだわ。彼女がそのうち泣き出して、「私は歩けない!」と喚いたから、10日ほどで釈放され家に帰されたみたい。 |