DOS & DON'TS




THE CREATORS PROJECT - SPIKE JONZE












TEXT AND PHOTOS BY HAYDER DAFFAR




バグダッド空港での有名な戦いは、2003年の4月の第一週に起こった。それはアメリカ軍によるイラク征服のための、最後の“公的な”戦いであり、イラク軍さえも致命的打撃と認めるものだった。俺たちはそれをアル・ハワシム(最後の戦い)と呼んでいる。そのときから、その言葉はフセイン政権崩壊後の混沌とした世の中で、殺人者、窃盗犯、あるいは犯罪者を指すときに用いられるようになった。

全イラク軍は、アメリカ軍の到着を待ってバグダッドの南に集結した。しかし、飛行機でやって来たアメリカ軍は、バグダッドの西の空港に着陸してフセイン軍の不意をついた。イラク側の対応は、国家警備隊(訓練や能力においてはアメリカ軍特殊部隊と同等の軍隊)とフセインの自由軍の全てを、直接その場に送り込むというものだった。多くのアラブ人が、死ぬかもしれないその戦いに進んで加わった。

この戦いの生存者はほとんどいない。そしてその事実は、国全体の伝説となっている。わずかな生存者の話と織り交ぜられ、その壮絶な戦いについての噂が交錯した。しかし、今となっては、戦いで起こった本当の事なんて誰にもわからない。その場所は、アメリカ軍が使った怪しい武器により、完全に焼き尽くされてしまったのだ。戦争後、アメリカ軍は“死のハイウェイ”と呼ばれる、有名な空港道路で起こった、多くの出来事を葬り去り、戦いの証拠を隠すため、何千というイラク人の目の前でその土地を新しい土で埋め立てた。

その戦いで残された最も重要なものは、友達から集めた映像と、空港道路で俺が撮った死体の写真だ。映像は、フェダイン・サダム、別名フセイン自由軍が、小さなハンディカメラで撮ったものが収められている。この軍にいた戦士たちは、若いころからたった2つのことを全うするために訓練されてきた:従うことと殺すこと。俺も戦争が起こる前、イラク国営放送が流していた彼らの訓練風景のビデオをよく見ていた。訓練のために砂漠へ送られ、何週間も食べ物も水も与えられない状態で、砂漠にいる動物を生のまま食べて生き延びる彼らの姿をカメラがひたすら追っていた。今でも、彼らが狼を切り裂き、生のまま食べている光景が目に浮かぶ。フェダインに関してはイラク人にとって、空港戦争のヒーローだと言える。アメリカ人を殺し切り刻むために、戦いの最初に放たれた何千もの彼らの姿が映像に映し出されている。映像の中では、何人かの戦士が、殺したアメリカ人の頭を一つずつ持ち、一緒に写真を撮っている様子も見られる。優勢だったように見える彼らが、一体なぜ消えてしまったのだろうか?

それは、青い光のようだったと人は言う。または、数分間も目が見えなくなるほど凄まじく眩しい光を見たと話す人もいる。様々な噂が飛び交っている。その噂のどれが真実なのかはわからないが、ドイツ製とロシア製の強力な大砲と戦車を持った強くて凶悪なイラク軍兵士のほぼ全員が、たった1日で殺されてしまったというのは紛れもない事実なのだ。俺たちが聞いた話では、最初の2日間でアメリカ軍はこてんぱんにやられていたはずなのだ。フェダインは、アメリカ人の死体の山を戦場のあちらこちらに作り、そのいくつかを焼き、肝臓を食べたり、死体の上で祝福をしたりしていた。3日目になってアメリカ軍は撤退を始め、司令官がいなくなって(そのときまでには、フセインと彼の側近たちは逃げ出して、永遠に姿を消してしまっていた)ぼんやりしていた兵士たちは、戦いに勝ったのだと思い、海軍によって占拠されていた空港ビルの方に移動した。その直後、アメリカ軍の飛行機が飛んできて爆撃したのだ。それによって兵士たちは全滅してしまったため、この後の話を知る者は誰一人生き残っていない。だが、アメリカ軍がこの爆撃の際、違法な武器を使った証拠として2つのことを挙げることができる。

その1:俺はこのときイラクの赤新月社のボランティアをやっていた。戦時中の俺たちの仕事は、イラク兵の遺体を集めて、彼らが死んだ場所に埋めることだった。空港での戦いでイラク軍がやられた2日後に、俺たちは空港道路へ行った。ラッキーなことに、そのとき俺はカメラを持参していた。俺たちが見つけた遺体からは一滴の血も流れていなかったし、来ていた服も汚れていなかった。だがどの遺体も真っ黒に焦げているか、ユニフォームを着た骸骨のような状態だった。俺は急いでその写真を撮ると、遺体を埋めてその場を去った。

その2:戦争の後、俺は空港道路に隣接した地域にある、50件もの家をリサーチした国際的活動家たちのメンバーに加わった。そのリサーチでわかった事は、全ての家庭でそれぞれ少なくとも一人は、皮膚病や呼吸器官の病気、あるいは何らかの癌を戦後になって発症している人間がいるという事だ。ガイガー・ミュラー計数管で、その地域の放射能濃度を測ってみると、人間が耐えられる数値をはるかに超える高い濃度の放射能が計測された。そして戦争が終わって1週間もしないうちに、アメリカ軍が空港道路の土の入れ替え作業を始めたとき、その戦いで何かしらの核兵器が使われたのだということを俺たちは確信した。

その戦いの真実は、今も空港道路の新しい土の下に眠っている。それを思い出すために俺が手にしているものは、焼け焦げた遺体の写真と、フセイン軍の映像だけだ。